戦略戦術の集大成であるスポーツ雪合戦の理論を使えば包括的ビジネスの覇者に!
今回は学術的に雪合戦の理論から歴史を学ぶと云う視点で書かせていただきます。
テレビで太平洋戦争を取り上げられる事が多いのですが、その大きなターニングポイントになったミッドウェー海戦をもう少し戦略戦術的に説明し、なぜスポーツ雪合戦の理論が当てはまるかを3回に分けてご紹介します。そして、この理論がその日本史の大きなターニングポイントとなる戦(Ikusa)にも当てはまり、歴史から何を学びビジネスでどう活用すべきかを導き出したいと思います。
そもそもミッドウェーとは何処にあるの?

ミッドウェー島は北太平洋上にある北緯28度13分、西経177度22分 日付変更線付近に位置する面積6.2平方キロのアメリカ領の小島です。東京から約3800キロ離れた場所にあります。
最近では、2011年の東日本大震災の津波で棲みついた多くのアホウドリが犠牲になった事がニュースになりました。
55年前の戦争の足跡がその後の世界を大きく変える
はじめに、日本史のおさらいから始めます。昭和6年(1931年)満州事変からドロ沼化した日中戦争の打開を図るため旧日本の軍部が世論を巻き込み悪化する対米英関係を軍事的手段によって解決を図るため1941年12月8日(アメリカ時間7日) に海軍機動部隊空母6隻からのゼロ戦を主体とする攻撃部隊がハワイ州オアフ島の飛行場と軍港を奇襲攻撃した事を端に発する太平洋戦争がはじまり陸軍海軍とも快進撃でアジアと太平洋の西地域を制圧しつつある処から、お話を始めます。
デューリットルB-25 東京爆撃
正に危機管理の欠如としか言えないお粗末な出来事
そんな中、アメリカ海軍は空母機動部隊を南鳥島や日本が占領した島に向け航空機での空襲を行い、それに対し一部軍部では本土にも空母艦載機からの空襲のリスクを懸念していたにもかかわらず、楽観論が主体となる。一方アメリカ側は、カリフォルニア州沖での日本潜水艦からの商船撃沈や砲撃事件を目のあたりにし、日系移民の強制収容や反撃の作戦を陸海軍合同で日本本土空襲を企てる。
当時の日本の防空意識
そして日本側が楽観視していた航続距離の短い空母艦載機からの空襲ではなく、航続距離の長い陸上の双発爆撃機(まだB-29は開発中)での東京を中心とする爆撃を計画。しかしながら、航空母艦から双発爆撃機を飛ばした経験がなく、それを実施するため訓練を実施。1942年(昭和17年)4月18日 千葉県房総沖約1000キロ海上から双発爆撃機B-25 16機が発艦。

東京・川崎・横須賀・名古屋・神戸を爆撃し、90人近くの被害者を出し、帝都東京を爆撃された軍部の動揺はそれ以上のモノでした。アメリカ側の被害は、撃墜ゼロ、多くのB-25が中国大陸に逃げ込み、若干名がソ連領に不時着し抑留された程度でした。因みに当時首相である東条英機の乗った専用機が水戸上空でB-25一機と接近遭遇して「あれは敵軍機か?」と驚いたと云うエピソードが有るくらいです。
ディフェンスラインを上げる
今まで日本軍部は、この空襲で危惧し、将来敵の超大型戦略爆撃機の登場により日本本土特に帝都東京に直接空襲される危険を考え、4000キロ離れた基地を作らせない、空母からの艦載機空襲を避けるために警戒哨戒ラインを犬吠埼沖1000キロからそれ以上に離す計画を考えたのが、ミッドウェイ作戦のきっかけです。
(サッカーでも遠い距離からのシュート成功率は低くなります。)
危機管理意識のない日本
実際は空襲前に日本の艦船が空母を発見して無線信号を送ったにもかかわらず、楽観視して真剣に防空体制を引かなかった日本の軍部、敵の爆撃機が近くに来ても知らなかったトップである東条英機。休日の東京飛鳥山でそのB-25に手を振った子供たち。情報の共有が被害リスクを最小限にして、マネジメントする事の大切さを学ばせて頂きました。弊社の研修プログラムでは、工事現場などKYTの観点にも基づき危機管理能力も養う事が可能です。
第二章 ミッドウェイ海戦に続く ( 10月17日 投稿予定)